先週発表されたGoogleの医療諮問委員会だが、厳しい批判がブロゴスフィアの一部から上がっている。委員会構成メンバーに看護師や医学図書館員が入っていないとの指摘が最初に挙がったが、次に患者代表や患者団体のメンバーが少なすぎるとの批判も挙がっている。
改めて委員会メンバーを見ると、米国医師会、大学、大手医療機関、研究機関、保険会社など、ほとんどが医療エスタブリッシュメント陣営からのメンバー構成となっている。これに対する反発が、主としてネット系患者団体や医療系ブロガーにおいて根強いようだ。
たしかに、Google Health開発責任者であるアダム・ボスワース氏の最近の発言を振り返ると、医療におけるコンシューマリズムをかなり強調したものになっており、「Googleが医療業界に新風を吹き込んでくれるのではないか」という期待を消費者サイドに与えてきたことは否定できない。その「期待」と「医療諮問委員会メンバー」の落差が、消費者や患者側の失望を生んでいるのかもしれない。
先のGoogle Healthの予想エントリーでも触れたが、このことは米国社会の中でGoogleが、いかに従来の産業エスタブリッシュメントの旧弊を打ち破る企業として期待されているかを教えてくれる。同時に別の観点から見れば、ことほどさように、米国においても医療エスタブリッシュメントが社会的な不信の対象になっていることを告げている。映画「SiCKO」などが出てくる背景にも、このような社会的不信があると思われる。
日本社会にも存在するこれら医療不信をどのように考えるべきなのか。医療者側、患者側それぞれに言い分があるのは当然であり、まずはお互いの言い分に耳を傾けるところから出発するしかないだろう。そしてそれがやがて漸進的な相互理解を形成していくのか、それとも鋭利な相互離反を切り出すのか、それはなんともわからない。
医療を「きれいごと」で済ますことは出来ない。切れば血を噴く生身の人間を扱い、有限で頼りない不定形な「生命」を扱うのだから。一般抽象化した制度論や学説などと、一人の個別にして有限な人生との間を架橋することが、そもそも無理なのかもしれない。医療者にしても患者と疾病に対し、たとえ専門家ではあっても、所詮「第三者」の位置にとどまるしかない。「あんたは病人ではないから、私のこの苦しみと痛みをわかるはずがないのだ」と、ある患者は闘病記に記していた。
このような当事者としての闘病者の証言とドキュメントを、もっとデジタルコモンズに蓄積していく際の一つのツールとして、われわれはTOBYOをつくり始めている。
三宅 啓 INITIATIVE INC.